これから
人に愛してもらえるよう、自分を好きになる事にした。そうすると、少し自分を許せた気がして楽になった。気持ちが楽になると、ようやく自分のやりたい事が見えた。
自分は、自分の斉藤さんを探そう。
放浪
きっとこれからも、ありもしない彼女の痕跡を追いかけるのだろう。彼女じゃないと分かっているのに、その要素を持つ人に惹かれるのだろう。
成りたい誰かに成る、そこに本当に辿り着いた人間を、私は人類史上1人しか知らない。ありもしない奇跡を信じてこれからも歩き続けるのだろうか。いっその事と思うの事は日常的にある。私以外の探索者に幸あらん事を
ひょっとして
正義であろうと、正しくあろうと、意識的、無意識的に思っている事が、苦しさの原因かもしれない。この正しさとは、この時代の規範の集合体で、常識と言われる最大公約に過ぎない。ある意味、借物や洗脳である。
自分に対する行動なら、これらに従っても心との摩擦は少ない。しかし、自分の命より大切な人への行動となると、そうは行かない。その人の幸福のための行動が、常識や正しさから外れる場合に心の摩擦が発生し、苦しさを生んでいるのでは無いのだろうか。少し考えれば、常識や正しいとされる行為が、万人の幸福とイコールであるなど、論理的にあり得ないと分かるはずである。
この認識の元、常識や正しさを切り離し、真摯にその人の事を考え、行動すべきだ。よく考えれば、誰かが考えた、誰かの為の様式を自分より大切な(つまりこの宇宙で最も価値がある)存在に当てはめる事は、とてもおぞましい行為であると気付く。
この思索が出来たのは斉藤恵さんの為だ。誰かを本当に愛したのは初めてかもしれない。何故なら愛する事の意味を真剣に考え、その本質を目指したのは初めてであるから。きっと斉藤さんを知らなければ、好きと愛の違いもあやふやなまま一生を終えていただろう。これからも考え続けるだろう。願わくば、思索の果てに奇跡がありますように。
怖い
時間は癒しを与えてくれる。それは否応無く全てを変えてしまうという事ではないのだろうか。変えてしまってはいけない物までも。
斉藤さんが、斉藤さんの記憶もいずれ色褪せ、その他大勢の中に埋没してしまはないか?
あれ程の眩しい人が、そうなってしまはない保証がどこにも無い事が、とても恐ろしい。斉藤さんが特別であるうちに、自分を終わらせたい気持ちに駆られる。
これまでも、誰かに想いを寄せた事は幾度もあったが、それは良い面にのみ目を向けた結果だった。今回は違う。斉藤さんの弱さ、狡さ、危うさ、強さ、美しさ、優しさ、全て知った上で生きている限り一緒に居たいと思う。
これは愛と言えるのだろうか。とても苦しいが生きる意味と言えるのだろうか。カノジョのためなら如何なる対価も払えると思う。この気持ちが永遠でないとすれば、余りに悲しく、そしてとてもとても恐ろしい。
続ける意味
生きる意味(こうしたい。こう成りたいという願望)を喪失(実現不能状態になって)してから、かなりの年月が過ぎた。
その間、のらりくらりと躱し、惰性で生きてきたが、苦しみ傷つきながらも寄り添い、互いを必要としあう眩しい存在を目の当たりにし、これ以上目を背けることが出来なくなった。
自分は望む物は何もなく、成すべき事もない。
生命活動を続ける意味を全く感じない。不必要な命を持て余している。この命を使う機会や相手が欲しい。目を背けていてた不可視の呪いが精神を蝕む。
全てを捨て、果てしない探索の旅に出るか、この魂の牢獄を破壊するか、決断すべきだ。これ以上、命を腐らせたくない。
思えば、ずっと苦しかった。救済はきっとあると無理矢理に思い込ませ、ここまで歩いてきた。何度も何度も倒れそうになりながら、奇跡的に踏みとどまれた。もう一度と言われれば絶対無理だ。今この瞬間も苦しくて堪らない。
そう言えば、この言葉は現実で言った事がなかった。きっと今言うべきなのだろう。
「助けて」と。
だが、誰に?
もう絶対
自分と違うという理由、他の人と違うとい理由で誰かを拒絶したり、理解する努力やコミュニケーションを放棄する事はしない。
人間はいじめをする動物だが、自分は絶対にしないし、見たら止める。
これを守らなければあの子を冒涜する事になる。あの子を過去に救えなかったことに対する贖罪も果たせない。